1991年5月、石川県七尾市、辻家の二男(3人姉兄の末っ子)として、この世に生を受ける。3545gの元気な子!
母曰く、「誠心」という名前は、第76・77代内閣総理大臣である海部俊樹氏の応援団体「誠心会」から頂いたもの、とのこと。
「3番目末っ子」ということで、両親の愛をいっぱいに注いでもらった。父の獲ってくるお魚を食べるのが楽しみの一つだった。
姉とは年が離れていたので遊んでもらったという記憶はそんなになく、兄とはいつも喧嘩をしていた。大っ嫌いだった!(笑)
年長さんの時に初めて好きな人ができたが、実らず…
小学1年生、家族の影響で剣道を始めるが、まさか今まで続けていくことになるとは当時思ってもいなかった。
同時に習字にも通わせてもらって、今となってはとても感謝している。
先生に褒められるのが好きで、その為に一生懸命勉強を頑張った。
もはやこの頃には末っ子ならではのワガママっぷりを発揮していたよう…
小学生の頃から自衛隊や議員さんに興味を持っていたらしい。
ご覧の通り、白くてぷにぷにでかわいらしい少年だったよう。
七尾市立東部中学校へ入学
3つの小学校区が集まった大きな中学だったので、色んな友達ができて嬉しかったし、これが自分の人間としての幅を広げてくれたんだなと、ご縁のあった方全てに感謝!
中学3年生の時、学校の応援団長を務めた。ちょっとやそっとのことでは動じなくなったのは、この頃に足を震わせながら全校生徒の前で応援歌を歌ったからだろう…
3年生では3組だった。担任の先生を含め、このクラスの人たちとは一生の付き合いになる予感しかない。燦々ホームに幸あれ!
塾にも入らせてもらって、それなりに勉強を頑張った。
石川県立七尾高等学校へ進学(地元では進学校と言われていた。)
高校時代の大きな思い出と言えば一つ。遅すぎる「反抗期」が訪れたこと…保身に走る大人たちに激しく反抗した。よく涙した。特に母には、悲しい思いを沢山させてしまった。この頃、よく話を聞いてもらっていた塾の講師には頭が上がらない。
高校2年生の後期に生徒会長をさせて頂いた。各委員長に仲良しばっかりを集めてしまって、3年生の非難の的になった。しかしながら、やっぱりこの仲間とは一生の仲良し。
防衛大学校からの合格通知が届き、夢のスタートラインに立った。
夢のスタートラインの壁は高かった。入学後4カ月で10kgほども痩せた。人格が淘汰されていくような気分だった。
休日を利用して神奈川県まで激励に来てくれた両親への想いが大きくなりすぎて、初めてホームシックになった。反抗期といいホームシックといい、色々と遅すぎる…
自分に負ける、という感覚を初めて味わった。いわゆる挫折をした。自分の弱さを知った。
各学年で勤務学生と呼ばれる要職を拝命した。それぞれの立場で考えなければならない事があって、「考えることをやめないこと」の重要性を身をもって感じた。
色んな国からの留学生を迎える防衛大のおかげで、広く国際感覚を身につけることができた。「我々が相手にしなければならないのは横に居る同期ではなく、各国の同期。」
防衛大からの留学制度もあり、その選抜になんとか引っ掛けてもらえた。米国への短期留学“SCUSA”(「米国情勢学生会議」)には色んな苦い思い出がある…
ひょんなことから、3年生の時に兄とイタリア旅行に行った。それ以来は好きだ(笑)
卒業時研究論文で、 「日本機械学会・畠山賞」を受賞した。実は研究室の教授が学生時代に横国大で同じ賞を受賞している。「畠山賞」自体の価値は申し訳ないがあまり分かっていない。何が嬉しいかというと、尊敬している恩師と同じ賞を取れたこと。
「大切な」という言葉で表現できないくらいの同期ができた。研究室で恩師にも出会えた。
防大の思い出は書ききれないほどある。まとめると、何にも代えがたい濃い4年間だった。
防大卒業後、幹部候補生学校を経て練馬駐屯地に配属された。練馬で幹部自衛官となり、練馬で退職を迎えられたことは、感慨深い。
熊本地震において災害派遣を命ぜられ、避けられない自然の脅威を体感した。それと同時に、国防とは別に今後自衛隊が担うべき「災害派遣」という任務について考えさせられた。
多くの人に出会って「辻誠心」の運命が変わった、自衛隊の退職。家族・友人からはもちろん、各方面から様々な意見を頂いたが、それで揺らぐような覚悟ではなかったことを認識できた。
練馬区に身を捧げようと決意した。この豊かな練馬を私たち住民にとって誇りある地にし、もっともっと発信していきたい。
多くの皆様のご支援、ご理解を頂戴し、
平成31年4月21日、4,999票を得て50人中14番で初当選!
これから新しいエピソードが始まっていきます。